With Time


 ったく……何なんだよ二人して……!
 アッシュは苛立ちも露わに、森の中を歩き回っていた。
 早朝からユーリに叩き起こされ、やれ朝飯を作れだのやれ掃除をしろだの命令された。そこまでなら普段通りなのだが、卵焼きの中にチーズを入れたらユーリが猛反対してフォークを付けなかった。
 卵の中にチーズを入れるなんて邪道だ! らしい。一方、スマイルの方は美味しいと言って食べてくれたのだが、その後バンド練習中に、たまたま透明になってスマイルに気付かず足を踏んでしまって、頭を思い切りマイクスタンドで殴られた。
 少し踏んでしまっただけなのに、何故昏倒する程強く殴られなければならないのか……
 それを見たユーリがそら見ろとでも言うように卵の神の天罰だとか、何とかせせら笑う始末。卵の神というのが一体どういう神なのか解らないが、 逆上したスマイルとネチネチと今朝の一軒を掘り返すユーリによって、アッシュは城を追い出されてしまったのだった。
 追い出される程悪い事をしたとは思えない。謝っても許してくれずに追い出した二人に対して、アッシュは猛烈な不満を抱えたまま特に行き先もなく歩き回っていたら、いつの間にか森の中に入り込んでいた。
 人気のない森だったので、ただ闇雲に歩き回るのには、返って都合がいい。今は誰とも遭いたくない。もしここで誰かに遭ったら、自分の性格からして、まず間違いなく八つ当たりをしてしまうだろう。
 そんな事を考えながら歩いていると――

「おや……アッシュさん」

「っ……!」
 前方に、赤い羽飾りの付いた帽子を被り、顔の右半分を白い仮面で覆った幽霊紳士、ジズが立っていた。
 遭いたくないと思っていた矢先に、遭ってしまった。
 しかも、自分が少し苦手としている相手に。
 そういえば、ジズの家はこの辺りの森の奥に建っていると聞いた事があった。一見して廃墟のような見た目の洋館に、沢山の人形達と住んでいる。見た目は、わざとそうしているらしい。その方が人が寄り付かなくて都合がいいのだそうだ。これで家の裏に墓地でも有ったら、まさしく幽霊屋敷だろう。しかし裏にあるのは見事なまでの庭園だ。
 それらは全て、ジズ一人で育てたらしい。何故そのような事をするのか詳しい事は知らないし、興味もない。
 もう死んでいるのに、いつも澄まして微笑を浮かべている彼に、自分は憤りを感じていた。
 しかし、そんな相手でも、ここで無視して通るのはあまりに失礼すぎる。
 アッシュは渋々ジズに歩み寄り、小さく挨拶した。
 ジズはそんなアッシュに、いつもの微笑みを浮かべ、
「こんにちは。お散歩ですか?」
「……まぁね」
「奇遇ですね。私もです」
 そう言って優雅な動作で向き直る。アッシュはその様子を眺めながら、知らず眉間に皺が寄っていた。
「ハッ 幽霊のくせに散歩っスか? 貴方飛べんでしょ?」
 つっけんどんなアッシュの物言いを気にする事なく、ジズはいつもの丁寧な口調で、
「ええ。ですがやはり実体化して歩いていた方が、“この世にいる”という気がして、気持ちよいもので」
 そう言って微笑んだ。
 それを見たアッシュの心の奥から、凄まじい苛立ちが湧き上がってきた。
 この笑顔が気に入らない。‘死’など、自分達から見れば恐怖以外の何物でもないのに、自分にはもうソレが無いからと言って、何も考えずに飄々としているような笑顔。
 どうせ彼にとっては、この世の全ては遊びでしかないのだろう!
 拳を硬く握り始めるアッシュに気付かず、ジズは空を仰ぎながら、
「ほら、今日はとても良い陽気ですし、こんな日は、太陽を見上げながら歩かないと、勿体ないじゃないですか」
 そう言った瞬間、アッシュの神経に火が点いた。
 天気のいい日など、自分達と違って彼はこれまでもその先も、何百回と見られるくせに――!

「あんた……ムカツクんだよ!!!」

 酷く乾いた音が、森に響いた。
 アッシュはジズの頬を思い切りはたいたのだった。
 そしてその衝撃で、仮面が外れて、草の上に小さな音をたてて落下した。
 ジズはよろけて二、三歩後退り、そこで踏み留まって沈黙する。
「!」
 しまった!
 我に返ったアッシュは慌ててジズに駆け寄る。
「ごめっ! ちょっとイライラしてて……っ」
 表情は長い前髪に隠れて見えないが、口の端からは血が滲んでいる。
「顔見せて!!」
 やってしまった。八つ当たりして怪我までさせてしまうとは……。どうして自分はいつもこうなのか……
 ジズの腕を掴み、自分に向くように強く引いた。瞬間――

「やめて!!」

 アッシュは瞳を見開いた。
 自分と向かい合うように引いたジズの顔には、勿論仮面が付いていない。
 普段は顔の右側を仮面で覆い、更に前髪まで伸ばしていて、顔の右半分は全く窺えない。
 しかし今は仮面もなく、前髪は腕を引かれた衝動で流れ、右側の顔が晒された。
 一瞬。それは本当に一瞬だけ見えた物だったが、アッシュの網膜に強く焼き付いた。

 ジズの右目は、鮮やかな深紅で彩られていた。

「あ……!」
 ジズは刹那の内に幽体化し、その場から消えてしまった。
 握っていた腕がなくなり、アッシュはバランスを崩したがすぐに足を踏み出し、体勢を立て直す。
 今の一瞬で高鳴った鼓動を、深呼吸してゆっくりと沈める。
 そして今尚草の上に落ちている、白い半仮面を見つめた。
 何て綺麗な…………深紅の瞳―――――

                  


 紳士である故、ジズはいつも礼儀を心得ている。だからいくら自分が幽霊でも、自分の家に入る時であっても、きちんと玄関から入る。
 しかし、今は幽体化したまま二階の自室に窓から直接入り、そこでやっと実体化してガタガタと荒い音をたて、棚の引き出しを漁り始めた。
 普段の主人とあまりにも様子が違うのを不審に思って、ジズを小さくしたような四人の人形が心配そうに見上げている。
 ジズは棚から仮面を一つ取り出し、それで急いで顔を覆った。呼吸は荒く、体は細かく震えている。
『主……』
「…………!」
 足下でハートに声をかけられて、初めて四人が見上げていた事に気付く。
『ドうか……しタノでスカ?』
 自分にしか聞こえない声でそう尋ねるハートに、ジズはぎこちなく微笑み、胸の前で軽く手を差し出した。
「――――大丈夫ですよ。いらっしゃい」
 そう言うと四人はふわりと床から浮き上がり、ジズの目線より少し低い位置で静止する。差し出した掌に、ハートがゆっくりと降り立ち、心配そうに主人を見やる。
『主……何ガ有っタのデスか?』
「仮面を落としてしまっただけです。少し疲れたので眠ろうかと……」
『ソうデすか……オ休みなサい』
 他の三人も次々と掌に降り立ち、口々にお休みなさいと挨拶する。掌に乗れたのはハートとクローバーだけで、定員オーバーになったスペードとダイヤは指にしがみ付いている。
 その光景を仮面の奥から微笑ましげに見つめてお休みと応え、上着をクローゼットにしまいベッドに横になった。
 四人が出て行くと、ジズは上体を起こし、そっと仮面を外して枕元に置く。
 自分が眠っている時に誰かが訪問してくる事はまず無いし、睡眠中は誰も通さないよう、門番のキリコにも伝えてある。きっと今頃ハート達がキリコに自分が睡眠中だと伝達しているだろう。
 習慣として、眠る時には仮面を外す。いくら幽霊でも、こちらの世界に存在していくには業に入れば業に従えで、栄養も睡眠も必要だし呼吸もするし、先程のように怪我もする。
 怪我は少し時間が経てばすぐに直るが、痛い事には変わりない。
 しかし先程の痛みは、はたかれた頬の痛みでも、その際に切れた唇の痛みでもなかったのだが――
「…………………」
 くしゃりと右側の前髪をかき上げると、ジズは今度こそ、眠りについた。


『ねぇ、次はきっと私の番だわ! どうしたらいい?』

『私達ずっと一緒よね? 貴方は私を守ってくれるわよね?』

『そいつよ! そいつが本当の――』


「やめてぇ!!!」
「ジズ!!」

 眠りから覚醒したジズは右目を手で押さえた状態で瞳を開いていた。左目から温かい物が目尻を伝っていて、それが涙だと認識するまでに少し時間がかかった。
「ジズ……?」
「! な……っ」
 そして、自分の顔を覗き込むようにアッシュが立っていた事に気付いた瞬間、跳ね起きて枕元の仮面を乱暴に掴み、顔に装着した。
「何の御用ですか!?」
「あ……いや……」
「どうして入ってこられたのです!? キリコにもハート達にも誰も入れるなと言ってあるのに……!!」
 ベッドから降り、仮面の奥からアッシュを睨む。眠っていたので瞳は閉じていたから、右目の色を見られた訳ではないが、それでも憤りを隠せない。
 ましてやそれが、つい先程、もしかしたら右目を見られていたかもしれない相手になら尚更だ。
「ごめんっス……あの、コレ、届けようと思って………」
 そんなジズに、アッシュは少し身を小さくしながら、ジズが落とした半仮面を差し出した。
「……! ………そうでしたか……」
 恐らく、先程自分が仮面を落としたという事を、ハート達がキリコにも伝えたのだろう。自分が仮面を探していると思ったキリコは、例外的にアッシュを通したのだ。
「さっきは本当に悪かったっス。イライラしてたの……ジズに八つ当たりして……」
 仮面を差し出したまま頭を下げて謝るアッシュに、ジズは溜飲が下がる心地がした。そしてアッシュの手から仮面を受け取ると、軽く微笑んでから、
「……いえ……私が無意識の内に、貴方にとって不快な発言をしてしまったのでしょう。こちらこそ申し訳ありませんでした」
 そう言って背を向けると仮面を付け替え、上着を羽織った。
「いや! そんな……」
 明らかに自分が悪いのにそれ以上責めようとしないジズに、更に申し訳なさが湧き上がる。と同時に、先程彼の瞳から零れた涙を思い出した。最初、自分が部屋に入った時には既に魘されていて、揺さぶっても起きなかった。周りを拒絶する程の悪夢を見ていたのだろうか――?
「今……お茶を淹れますから……」
 そう言って部屋の出口に向かうジズの背中に、アッシュはポツリと呟いた。
「何か、嫌な夢でも見たんスか?」
 その言葉に、ジズは背を向けたまま――
「いいえ。少し……生前の夢を見ただけで――――!!」
 そこまで言いかけて、慌てて手で口を覆う。
 しまった。
 ジズは、自分に生前の記憶が有る事を誰にも言っていなかった。誰に記憶の事を聞かれても、何も覚えていないと言い続けてきたのだ。話せばきっと、相手は自分を軽蔑するであろうから――
「―――昔……の……?」
 ジズの言葉に、アッシュは耳を疑った。以前スマイルにジズの記憶について訊いた事があったが、何も覚えていないらしいと聞いている。
『悲しい事が……あったのかな………?』
 スマイルが寂しそうにそう言った事を、アッシュはハッキリと覚えていた。
「じゃあ……本当は覚えてるんスか!?」
 あんなに仲のいいスマイルにも言えない事――?
「――貴方には関係ありません!!」
 先程とは打って変わって、振り絞るような声でそう叫ぶジズに、アッシュはよほど触れられたくないのだろうと察しながらも、おずおずと言葉を口にした。
「………その右目の色と……関係してるんスか?」
「――っ!!」
 言った瞬間、ジズは鋭い眼差しで勢いよく振り返った。
「見たんですか!?」
「あ……」
「やはりさっき見たんですか!??」
 振り返ったジズの表情は怒りも露わで、アッシュは驚愕を隠せなかった。普段、余程の事がなければ相手を怒鳴りつけるような事はないこの紳士が、何故ここまで激昂しなければならないのか理解せずにいる自分が、酷く空虚に思える。
「えと……ごめんっス……一瞬だけ――」
「なら解ったでしょう!? 私がどれだけ異質なのか!!」
 アッシュが喋り終わる前にジズはそう言葉を吐き散らし、目を逸らした。
 ――見られた。
 この仮面の裏の瞳を、これまで隠し通してきた瞳を見られてしまった。
 恥辱。
 怒り。
 恐怖。
 そういった感情が波のように心に押し寄せる。
「これで今まで以上に気味悪く見えるでしょうね!! どうぞ軽蔑して下さいよ!!」
「え……! 軽蔑なんて――! 俺はただ……何でその右目をいつも隠してるのかなって……」
「!!!」
 その言葉に、ジズは今度こそ激昂した。
「貴方私を馬鹿にしてるんですか!?」
 キッ、と鋭くアッシュを睨みつけ、これまでより更に怒りを露わに怒鳴りつける。
「貴方は私の右目を見たのでしょう!? なら解るでしょう!! この目を他人に見せたりしたら――」
「えっ? だって……」
 アッシュは初めて見るジズの怒りに躊躇しつつも、自分の思った事を口にした。

「宝石みたいに、綺麗な瞳だと思ったから……」

「――――え……?」
 その言葉に、ジズは瞳を見開いた。
 綺麗な、瞳――?
 たった今アッシュが発した言葉が、頭の中で反芻される。
 それは、ジズにとって初めて聞く言葉だった。
「……もう一度……よく見せてもらえないっスか……?」
 おずおずとそう訊ねるアッシュに、ジズは一旦目を伏せた後、無言で仮面を外した。
「…………」
 先程の勢いが嘘のように静かになったジズの頬に、アッシュはそっと手を添え、上を向かせた。
 そして、息を呑む。
 開かれたジズの右目。
 濃く深く――なのに何処までも透明な赫い色。恐ろしいまでに美しい瞳。左の鮮やかなサファイア色の目とは正反対の――ルビーの瞳。
「……やっぱり綺麗………」
 アッシュはジズの肩に手を置き、その瞳を覗き込むようにして見つめ、ジズは少し萎縮して瞳を逸らした。
「初めて見た……こんな綺麗な紅………何で……? 何で隠すんスか?」
 勿体ない……常に隠すなんて――
「…………」
 その問いに、ジズは何処か悲しい瞳でアッシュを見上げ、そして瞼を伏せてから――
「先程の……生前の記憶を覚えているのかという質問の答え………YESです」
「――!! じゃぁやっぱり……!」
「聞きたいですか? 何があったか……」
 囁くようにそう言うジズに、アッシュは一瞬躊躇った後、頷いた。
 それを確認すると、ジズは背を向けて、
「言っておきますが、絶対に他言無用ですよ。………これからお話しする事は……」
そこまで言って、一つ息を吐き、
「この“七百年間”、誰にも話していないんですから……」
「――っ!?」
 七百?
 アッシュは瞳を見開いて驚愕する。
 ジズは、死んでからもう随分経っているだろうとは思っていた。しかし、正確にはいつ死んだのか、アッシュは勿論スマイルもメメも――他の誰も把握している者はいなかったからだ。アッシュ自身は、せいぜいユーリと同じくらいか、少し短いかくらいにしか思っていなかった。
 七百年前とはいつだったか――アッシュが数えるより先に、ジズはこう呟いた。
「‘魔女狩り’ってご存知ですか?」
 その言葉に、一瞬怪訝な表情を浮かべ、
「………まぁ……」
 それだけ答えて、沈黙する。それとこれとがどう関係あるのかと、不振に思った。
 が――
「私は、それに掛けられて死にました」
「!!」
 思ってもみなかった言葉に、アッシュは一瞬言葉を失った。
 閉まった窓の外で、木々が風に吹かれてざわざわと音を立てる。
「え……!? でもジズは男……」
「‘魔女’とは悪魔崇拝者や異端者の事を指すので、実際には男性も含まれるんですよ」
 アッシュの問いにそう答えてから、ジズは一息つくと、
「――でも私は……正確には‘魔女狩り’で狩られた訳ではありませんけどね……」
 酷く悲しい瞳でそう呟き、窓の外の青空を泳ぐ、鳥達に目をやる。
 そして静まりかえった部屋の中で、これまで誰にも話さなかった自分の過去を、ポツリ、ポツリと、語り始めた。

               
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